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南大塚六商店会

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JR「大塚駅」は13番目の駅。

2月 5, 2022

山手線の発展を顧みると、大塚駅の誕生が見えてきます。
 明治18年3月、赤羽~品川間が産声をあげて115年。現在の山手線が環状運転を開始した大正14年11月から75年の歳月が過ぎた。
 上野~前橋間の日本鉄道を新橋~横浜間の鉄道に連絡し、輸出の生糸を産地の群馬・長野県から鉄道を通して横浜に輸送する目的で、当初、新橋から北上して上野に至る路線が計画されたが、市街地を縦断するので用地買収等多大な経費を要するため、市街地を迂回する品川・新宿・赤羽の日本鉄道が開通した。
 豊島線(池袋~田端)は、常磐炭を鉄道で京浜地区に輸送する目的で、田端~赤羽~品川の迂回を解消するために作られた。
 市街地が拡大すると共に、旅客輸送を主目的として、上野~田端~池袋~新宿~品川~新橋の楕円状の路線にロータリー的要素が要請されてきた。
 大正8年3月、山手線と中央線の電車運転が直結し、「の」字運転が開始され、大正14年11月山手線環状運転が始まり山手線にはいくつもの民営鉄道による旅客ターミナルが出現した。
 池袋、高田馬場、新宿、渋谷、目黒、五反田などで、そのはしりは東上鉄道(現・東武鉄道)による池袋ターミナル設定である。
 当時の池袋は、豊島駅の分岐点であるが、小駅にすぎず当初は大塚を起点とされていた。大塚には既に大正2年市電が姿を見せており、王子電気軌道は飛鳥山まで開通していた。
 市街地への連絡に地の利を占める大塚をすて、池袋をターミナルに選んだ背景には山手線の電車運転が定着し、その利用によって市街地内への連絡が充分なしえると思われたと考えられる。
 大正14年の山手線の環状運転形態が、今日まで引き継がれている。